東日本大震災の記録アーカイブ
1,陸前高田市役所職員へのヒアリング記録
大津波で壊滅的な被害を受けた岩手県陸前高田市。市役所も市の主要な施設もほとんども水没し、パソコンどころか紙1枚もないほどの被害を受けた。しかも市職員の1/3が亡くなり、市役所屋上に避難し生き残った戸羽市長をはじめ市職員は、全員が家を失い家族を失い住む場所もない状況に置かれていた。そのような中で、市職員として誰にも知られることなく黙々と職務を果たそうとしていた。
大災害時に市職員として何をしていたのか、これを記録に残すことが重要と考え、市職員にヒアリングを行い、書き起こして記録した。その記録を広く公開することにした。(2022/3/11)
1)応急仮設住宅建設 菅野誠氏(建設部建設課)
2)応急仮設住宅建設 菅野優氏(建設部建設課)
3)学校関連業務 伊藤孝志氏(教育委員会)
4)埋葬について 橋本英雄氏(市民環境課)
5)埋葬について 大和田正氏(市民環境課)
2,陸前高田市最大避難所「高田一中避難所」のはじまりと運営について
元教育委員長として、市内最大の避難所となった高田一中に入り、その運営に当たられた横田祐佑氏に当時の状況を伺った。大量な資料も提供してくださり,困難な中どのように運営されていたかが明らかになった。
3,陸前高田市小友町(おとも)における避難状況
1)新田(にいだ)地区の避難状況 渡辺鉦悦氏
避難所となっていた地区公民館は危険と判断し、高台にあった個人宅に地区住民を誘導し、5月連休まで共同生活という避難生活をされていた様子、新田地区の復興の様子を伺った。
2)モビリアへの避難状況 千田 氏
小友干拓地を津波が横断していったため、広田半島は孤立しオートキャンプ場であった「モビリア」に多くの人が避難してきて自主的避難所となった。その運営と管理に当たった千田氏(当時市議会議員)に状況を伺った。
4,一関市による陸前高田市への支援活動
企画課長(現一関市長)佐藤氏へのヒアリング記録
陸前高田市に隣接する一関市は、救援要請もない中、自ら視察し、必要と思われる救援物資や一関市内に避難してきた人々に、市独自の即効性のある支援策を次々に展開していき、長年に渡り継続されていた。その責任者であり現一関市長となられた佐藤氏に、独創的なアイデアと行政の枠を越えてなされた支援策の意図や実際の運営の様子を聴いた。
5,震災復興支援に関する資料
松山がこれまでにまとめて書いた・発表した資料
震災復興支援に関する資料
これまでに作成した文章等で、HPに公開できるものを掲載していくことにしました。 (2013年12月27日)
授業『なぜ被災地に行くのか』(全学共通カリキュラム「復興支援とコミュニティの再生」の総括授業として行った授業)の資料 (2016年7月13日)
解説はなく、パワーポイント資料のみですが、概要は理解出来ると思います。
内容は
1)阪神/淡路大震災の経験
2)理論的枠組み
3)東日本大震災での活動
(1)学部ー組織・ネットワークつくり
(2)ソーシャルワーク ミクロからメゾ・マクロまでの実践
(3)いのちの尊厳のために・ゆたかさとは何か
4)陸前高田サテライトキャンパス
陸前高田・立教大学交流展(展示内容)
1,つながる 陸前高田・立教大学交流展(2013年12月開催)
<<コミュニティ福祉学部が行っている陸前高田プログラムの説明パネル>>
コミュニティ福祉学部復興支援プロジェクトの教員7名が2011年7月に初めて陸前高田市を訪ねました。
その後、2011年11月に『コミュニティ福祉学部・陸前高田サポートハウス』を開設し、以後毎月、陸前高田交流プログラムを実施してきました。2013年11月までに23回実施することができました。その他にもゼミ単位で多くの学生が陸前高田を訪れています。
今日は、その陸前高田交流プログラムの内容をお伝えします。
陸前高田市小友町(おとも)にある民家をお借りすることができました。津波が来た所から200mくらいしか離れていない場所です。
他のボランティア団体の拠点は数時間も掛かる場所にしか設置できなかったことを考えると本当にありがたいことです。
更に、布団も食器も全てすぐに生活できるよう整えられており、本当に感謝なことです。一時避難所として25人もの方々が4ヶ月以上生活されていた場所です。そこに寝るとき、ここで生活できる感謝の気持ちと共に、避難生活に思いを馳せることができる場所です。
その民家であることの良さを最大限に活用するプログラムを考え実施してきました。
★はじまりの始まり
このプログラムへの参加は、「はじまりの始まり」に過ぎない。参加することに意味があるのでは無く、参加した後に自分なりの関わり方を始めて欲しい。
★「支援する」立場では無く、人として付き合う
何かをするために陸前高田に行く必要はありません。「支援する」と決めた瞬間、立場が規定されてしまいます。人として普通に付き合うこと、その中で生まれる関係が重要です。学生という社会経験の浅い者が、人生経験も生活力も豊かな方々から、「教えてもらう」「助けてもらう」こと、それが普通の社会で生まれる関係では無いでしょうか。
★徹底的に個別的に交流する
大勢の中の一人として関わるのでは無く、誰だか分からないままではなく、顔も名前も分かって交流をすることが求められています。「また来ました。」「よく来たね。」そんな暖かい関係が生まれます。
★繰り返し交流することで「絆」になる
陸前高田交流プログラムは、2013年11月で23期に達しました。約2年間毎月実施してきました。学生は代わっても、同じ人たちと交流を続けています。最初は「縁」があって交流していましたが、「縁」が積み重なることで太い「絆」となっています。
★準備された交流から、自主的な交流に
学生は、車に乗せられて到着した場所で交流をします。いわば「準備された交流」です。でも、手紙や写真を送るということを続け、個人的交流が深まることによって自分が作っていく交流になっていきます。卒業式の晴れ姿の写真を送ったり、卒業後も自主的な交流は続いています。
★支援される人ではない。自分の持っている力を発揮する
震災前は、陸前高田の人たちは普通の人でした。仕事をし、家族と共に生きていました。震災から2年半経ち、元の生活に戻る時期が来ています。いつまでも支援を受ける人としてではなく、一人の人として生活することが出来るひとです。震災前に出来ていたこと、持っておられた力を発揮できるはずです。その力を発揮できるような交流を考えています。
★悲しみを共有するだけでなく、楽しい時間も共有する
親しくしていた多くの人が亡くなり、日常生活の場であった街並みが消えてしまうという大きな喪失と苦しみを味わわれました。その苦しみを少しでも理解したいと思います。高田や今泉の元の街並みの写真を手に街を歩いてみます。一時避難所となっていた家で、夜灯りを消し避難生活の追体験をしてみます。
それと同時に、一緒に郷土料理「かまもち」「なべ焼き」「どんこ鍋」などの作り方を教えていただき、一緒に作って食べています。わたしたちには珍しいこの郷土料理はおばあちゃんの得意料理です。大勢でテーブルを囲み賑やかに食べる時、あたたかい交流が生まれます。
★楽しい未来を一緒に創る
「準備された交流」を経験した学生は、帰ってから交流した方々に自分の写真を添えて手紙を書きます。これが「はじまりの始まり」です。名前も顔も分かって交流が続いていきます。恐らく数年後には、「結婚しました。」「子どもが生まれました。」というようなうれしい便りも届けることができるでしょう。
コミュニティ福祉学部 福祉学科 松山 真
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