被災地のKotoba

被災地で多くの人に出会いました。


被災地で多くの人のKotobaを聴きました。

 

 それらは貴重なKotobaです。

 

哲学的でもあるKotobaは、人の心を打ちます。

 

 できる限り残していきたい、生の声です。

 

手垢がついた物が何も無いのが「悔しい」  (2016/5)

 陸前高田市で津波が来た時の写真百数十枚を整理しています。写真一枚一枚に解説文を付け、ラミネートして分類しています。その解説をして下さっている方が、写真を見ながらポツリと言われました。

 

 津波でみんな持っていかれた。みんな新しくなって、きれいなものになったけど、昔の物がない。手に馴染んだ物が無いんだな。手垢がついた物が何も無いのが、悔しいな。

 

 5年経って、津波の痕跡は徐々になくなってきています。生活も物も新しいものに囲まれるようになっています。しかし、それが逆に「悔しい」と言われました。新しくきれいな物が増えることが「悔しい」という気持ちを起こさせるのです。

 物が全てなくなるという津波被害は、精神的にも甚大です。

阪神・淡路大震災後遺症が今

1995年1月に起きた阪神・淡路大震災から21年が経過しました。当時12歳・小学校6年生だった子が、前の勤務校関西国際大学での教え子です。

 ゼミでも一番明るくよく話す女子大生でした。よく「上沼恵美子さん」と呼ばれるくらい話し続けているほどです。わたしの研究室によく入り浸り、ご飯を食べるのは当たり前、化粧したり昼寝したり学生のたまり場になっていました。

 卒業して、わたしも関東に来たのでなかなか会えませんでしたが、大好きなおかあさんが亡くなった時、結婚したときなど彼女の人生の節目で会うことが出来ました。

 今年神戸に行ったので連絡を取ると、子どもを産んで産休に入っていました。近くの駅で会う約束をすると、ベビーカーにかわいい女の子を乗せて来てくれました。相変わらず良く話し、写真なども持って来て見せてくれて、とても気が利く子です。

 ところが、話の中で意外なことを聴きました。

 

「結婚して初めて分かったんやけどな、わたし寝るとき、真っ暗に出来なくて電気点けてん。ダンナが隣に居てくれるから安心して暗くして寝られるようになったわ。」

「なんでかって考えたら、これ、阪神・淡路大震災からそうなってん」

 *「家は被災してないよね。長田の上のだったんじゃない?」

「おかあさんと手繋いで、長田が燃えるのを山の上から見てたんよ。真っ赤に燃えててすごい怖かったのを覚えてる。停電してたから真っ暗で、その中で燃えてる街見てたから。」

 

 こんなに元気で何も無かったような子が、20年間も電気を消して寝られなかった、というのです。ほんとに驚きました。

 被災した人はもちろんでしょうけれど、実害には遭っていなくても、その場面を見たことでの後遺症ともいえるPTSDに似た症状がありました。

 

 こうした人が実はたくさんいるのではないでしょうか。

 ハイリスク・アプローチの必要性は当然ですが、子どもにとって様々なショックなことがあるでしょう。阪神・淡路大震災も、東日本大震災も、そして北関東豪雨被害、熊本地震被害でも、多くの子どもたちが心を痛め、傷ついていると思います。

 広く学校教育の中で、震災についての体験を語る時間を作るなどの対策が必要と思います。それを強く実感させてくれた実例でした。

                                (2016年3月)

 

同じ景色、同じ空気が安心する

2015年に、元々店舗のあった場所に事務所と倉庫を再建された方を訪ねました。そこは何度も通っていた馴染みの道ですが、震災時は2階まで浸水し全部流されてしまったそうです。そこに、新築の家のような事務所が建ちました。

 2階は部品などの倉庫、2階が事務所です。2階に上がると、薄い木目調で統一された柱や家具。机が6つ並び、応接セットがあり、奥に流し。ゆったりしたスペースです。腰高の低い窓からは、小友コミセンと再生された田んぼが見えます。4年経って、ようやく緑の田んぼが戻り、背景の山の濃い緑と細長く何キロも続く田んぼは、津波前はこうだったのだろうと想像させる景色です。

 入ってすぐ「きれいですねー」と思わず言ってしまいました。


※ここにこうして座っていると、何も無かったかのようだよ。前もここに事務所があって、同じ所に建てたから。いつ使い始めるか忙しく大変だったけど、ようやく使い始めることが出来て。」(使い始めたばかりです)

 (松山)「ここは浸水地域だったはずですけど、同じ場所に建ててもいいんですか?」


※「ここは市街化調整区域では無いから、そこは自由なの。隣に家があったけど、その人は住めないって高台に行くみたいだけど、うちは事務所だからまた同じ所に建てた。」

松山)「そうなんですね。じゃあ、震災前とほぼ同じなんですか」


※「そう、震災前とほとんど一緒。窓から見える景色はおんなじ。だからここに居ると津波も何も無かったかと思うくらい。 おんなじ景色の中にいるっていうのはそれだけで安心する。長年ここに居たからこの空気で安心する。新しい家(公営住宅)は、新しいけど、景色も何も違うからやっぱり人のうちに居るようで安心できない。ここはおんなじ景色だからやっぱり安心する。」


 その後、津波が来たときどこに居たか、そこからどうやって逃げてきたか。避難所の生活はどうであったかなど、話しが続き2時間にもなりました。

 こうして建物は元に戻っても、一歩外に出れば一変してしまった景色を見ることになりますし、なにより毎日生活する住居も新しい団地とはいえ、やはり慣れない生活の中でストレスは大きいのだと思います。よく「仮設に居られないから職場に居る」という話しも聞きます。災害公営住宅が出来ても、それは変わらないのかもしれません。

 4年5ヶ月が経過しました。4年5ヶ月「」経過しました。

 (2015/8)

新基準の防潮堤について

 陸前高田市でお借りしているサポートハウスから車で5分、大船渡市門之浜(かどのはま)の漁港を取り囲む新基準の防潮堤の一部が完成しています。高さは12.8mです。黒い部分がこれまでの5mの防潮堤、その上の白い部分が新たに増築された部分です。ここの数十メートル部分が新基準の高さで造られています。但し、ここを右に進んで行くと海側に倒れ壊れている防潮堤が未だそのままあり、その落差にも驚かされます。

 
 学生にその高さを実感して貰うために車から降り立って貰いました。その後いつも行っている魚屋さんに行き、学生が質問しました。「あの高い防潮堤をどう思われているのですか?」魚屋さんとお客さんで来ていた二人の方から意見を聴くことが出来ました。しかし皆さん学生の質問に「あなたはどう思った?」と問い返されてから少しずつご自分の考えを披露されました。


 A:海や波が見えない不安というのがある。今回の津波も漁師や海で働く者ではほとんど犠牲者はいない。物を取りに行ったりした人は別として、海に近いから海の様子が分かっている。海が見えないから、津波がすぐそこに来るまで気づかず逃げられなかった人が犠牲になった。
 B:丘の上に住んでいるが、波や船の音を聞いて育った。「あー、今日はなぎだな」「今日は荒れてるから漁には出られないな。」と布団の中にいても海の様子が分かる。それがあれで聞こえなくなる。
 C:今回、津波で家が壊れている音も聞いたけど、最初何の音か分からなかった。そこまで来ると思わなかったけど、一応高台に逃げた。あれが、堤防を越えてから逃げたんでは間に合わない。ここみたいに家の裏がすぐ高台なら未だなんとかるけれども、陸前高田みたいにずっと平らな所が続いている場所では、逃げられないでしょ。時速100キロで来る津波は、見えてから逃げても遅い。だから海が見られないのはかえって怖い。
 D:いくら丈夫に造ったって、人間の造った物は自然にはかなわない。こんなものにお金掛けるより、高台にすぐ逃げられるような道や階段を整備した方が安く済む。ずっと津波に付き合ってきた地域なんだ。低い所に住まなければいい話。
 E:漁師にとって布団の中で海の様子が分からないのは困る。漁に出られるか出られないか、漁港に行って判断するのでは無駄が大きい。布団の中で波様子を聞いて判断している。防潮堤があんなに高かったら波の音が聞こえない。
 F:今回防潮堤があるから逃げなかった人が多かった。またこんな高いのを建てて、だから大丈夫だと考えてしまうことが怖い。地震が来たら津波、地震が来たら1センチでも高い所に逃げる、それしかないし、それでいい。
 G:それに、あそこ(門之浜)は防潮堤が南側になってカーブしてるから、これまでも雪が溶けなくて重大事故もあった。これからもっとひどいことになるね。

 と、高い防潮堤に賛成する意見はありませんでした。「海が見えない方が不安・危険」という考え方は、地元の人ならではの意見だと思います。
 その後、そこから車で5分の「穴通し礒」に行きました。穴が開いた大きな岩は今にも崩れそうですが、津波で何も壊れていません。その後方にあった大船渡の湾口堤防は跡形もなく破壊されました。1億3千万年かかって出来た岩は強いのです。人間は強い自然とうまく付き合っていくのがいいのだと教えられました。

                (2014年8月7日)

煙突の上に座り、360度全て海に

陸前高田市高田町は、今はNTTビル、道の駅タピック、雇用促進住宅1棟など僅かな建物が震災遺構として残って居るのみで、家々の土台も、多くのビルも解体されてしまった。一面草が生え、道路がなければ広大な野原にしかみえない。

 その中で、一つのビルが残されている。個人所有のビルだ。3階建てのそのビルは、公的費用で解体せず、個人の責任で残されている。そこで起きたことは想像を絶する。

 市民会館が指定避難場所となっており、周辺の人たちは何の疑いもなく3階建ての市民会館に避難していたらしい。その人の両親も、弟さんも。Aさんは、そのビルで店をしていて、店や倉庫の片付けなどしていて逃げ遅れてしまった。真っ黒な津波がみるみる迫り、高くなっていき、追われるように上に上に逃げる。3階の上の屋上に出てもなお危なく、さらに上の狭い屋上に逃げる。鉄製の階段を登る時、もう足下に津波が来ている。そこも危ないため、突き出た煙突の上に登る。人がようやく一人しゃがんで居られるような狭い場所。幸いにも、脚を置くところは平で、しゃがんで手すりのように掴まる所があった。津波の高さはどんどん増し、足が浸かる。波が自分に掛かる。回りは360度全部真っ黒い海になってしまい。そこに沖ノ鳥島のように、少しだけ水面に出た場所にかろうじでしゃがんでいる。それ以外の姿勢も取れないほどの狭い場所に。振り返ると市民会館は水没していて全く見えない。「家族はもう駄目だ」と思ったそうだ。それよりも「誰も助かった人はいない。」と思えたと。

 見える範囲では、市役所の屋上と、マイヤ(デパート)の屋上と、県立病院しか見えない。後は全部海。船や色々な物が流れていく。自分が乗っている煙突に何か当たったらそれで終わりかも知れない。そんな恐怖の中で必死に煙突から落ちないようにして過ごしたという。

 津波が低くなっても、雪が降るほどの寒さの中、凍死しないように屋上に流れついた物を利用してビニールを何重にも巻き付けたりして一人で夜を明かす。余震の度にまた津波が来ると、煙突の上に登り、しばらく様子を見て屋上に戻る、それを繰り返していたそうだ。

 夜が明けて、ヘリコプターが飛んで来る。屋上に貯まった砂の上に、流木でSOSを描き、昼の2時過ぎようやくヘリコプターに救出された。

 

 

  こんな壮絶な体験をした方が、直接そのビルで話しをして下さった。どこにどういう風に居たのか実際にやって見せて下さった。わたしもその煙突の上に登ってみた。信じられない狭さと高さ。15mあるそうだ。こんな心許ない場所で、周囲が全部足下まで海という状況はとても信じられない恐怖だと思う。自分以外の人たちは助からなかったと思いながら、必死で落ちないようにしていたことを想像すると、何ということなのだろうか。

  こうして九死に一生を得たAさんは、この後が凄い。このビルを残しているのも強い意思があってのこと。この体験よりも、その意思を伝えたいと思う。

 

 ☆この方から伺ったことを一部文章化してみました。あとでご本人の了承を得ることが出来たら、全文公開したいと思います。  (2013/9/16)

@陸前高田。借りている家で。(2013/7/17)

 

 学生が来るといつも一緒にご飯を食べ、翌日仮設に招いてくださり、これまでの思い出や避難生活のことなどを話してくださるトミオさん,68歳。二人だけで納屋の中を見て、大量の大工道具など不要な物をどう片付けるかみてもらい、縁側を作りたいという私のリクエストに、一緒に寸法を測ったりした。一息ついて外向きのサッシを開け、庭から廊下に座ってお茶を出す。目の先には津波が突き抜けた半島の付け根が見える。トミオさんの生まれ育った土地だ。
 ポツリとトミオさんが独り言を言う。『二年三ヶ月経って、あの時のことを思い出すんだよ。あの時は無我夢中だったから何も考えなかった。今色々考えちゃうね。』もう何十回と話しているが、弱音を吐かない人。長く続く仮設生活の辛さを垣間見た。

 50年間の出稼ぎで建てた家、買ったばかりの自動車、50年間毎日つけて来た日記、文通していた400通あまりの手紙、思い出の詰まったアルバム、たくさんの物を一瞬の間に目の前で失った人のつぶやき。
 でもその後、目を上げて笑いながら『こんな暗い生活の中で、毎月大学生が来てくれて、一緒にご飯を食べるような生活になるとは思わなかった。本当に心が明るくなる。』
 
 このような思いを持つ人が何万人もまだおられる。私の活動は砂漠に水を撒くような活動だが、この人が家を建てるまでは来続けようと思う。この人の新築の家の建てまいの餅を拾わなければならないと思う。

豊かな生活 3  67歳男性

  停電で電気が点かなくても、ロウソクが一本あれば生活が出来る。ロウソクで生活して分かったのは、家族のありがたさだった。夕食の時、おにぎりしか無くても、ロウソクを1本立てておくと、ロウソクの周りに家族が集まってくる。みんなが一つのテーブルの周りに、顔がつくくらいくっついて座る。携帯もテレビも使えないから、みんな寄ってきて話始める。ロウソクの生活だった時、家族とこれまでで一番話しをした。お互いのことをありがたいと思った。

2012年12月 仮設住宅で一人暮らしをされている78歳の女性

 

 孫が大学生という関係から、孫の伝言も届けながら訪問した。私が会うのは3回目。ただ2回とも挨拶程度であった。仮設住宅に上がり話すのは初めて。学生も初めてであった。

 

 仮設の四畳半の炬燵に入れて貰い、座った途端に話しは始まった。未だ学生は自己紹介もしていないのに、語りのように始まった。

 

 わたしはね。津波の大変さを経験できて良かったと思っている。津波は怖かったけど、その怖さも知らずにいるよりも、こうしてどんなものだか分かって話せるようになった。津波の怖さを知ったので、これから天国に行っても「津波はこんなだったよ。」と知らないで逝った人に教えてあげられる。大変さを知らないよりは知ったことが良かったと思う。

 こうして生き残ったわたしに出来ることは、これまと同じで、畑をして、出来た物を売りに行くこと。電車がなくなってしまって高田に売りに行けなくなってしまったけど、やっぱり畑をして出来た物を分けることをしていきたい。

 

 (この仮設住宅は急な坂を登った山の中腹に有り、畑まではこの人の足で30分くらいかかる。畑で出来た作物を持ってこの急な坂を登るのは大変なことである)

 津波の前は、高田の市の日に出来た物を持って売りに行っていた。いつも決まった場所で売っていて、楽しみにしてくれていた人が居た。

 味噌を樽で三つくらい作って居たし、梅干しも樽で作って居た。そういう樽も全部流してしまって今はそういうものは出来ないけど、畑の物は作って居るの。この間もカボチャが出来たので、仮設の人に配って歩いた。重くて一度に持ってこられなかったけど、喜んで貰った。

 

 座ってすぐに「津波の怖さを知って良かった。」と語り始めるおばあちゃんに、体が震えるようでした。長年の畑仕事で体は小さくなり、去年は三回も骨折されたそうです。大変さを全く感じさせず淡々と独り言のように語って下さいました。

 

 

豊かな生活 2

 「今日は何人いるの?どういう人が来る?」と魚を買いに来たわたしに問う魚屋さん。もう1年半も通っている。「今日は10人。地元の人が7人と関西から2人来るんだ。」というと、何を食べさせるかを考えて、発泡スチロールの箱の中から色々出して来てくれる。勿論ほとんど生きている魚。「この牡蠣は鍋にするといい。あんまり根菜を入れないで、牡蠣の出汁で充分だから薄い味噌味で・・・・」と料理方法も教えてくれながら手際よく魚を捌いていく。お母さんがワカメを出して来て芯抜きの方法を教えてくれる。これも経験と、おぼつかない手つきで芯抜きをしながらお父さんの料理方法を聞いている。

 「帆立は食べる?」「勿論!」 「じゃあ取ってくるから」 「えっ?取ってくるって?」  仮設の店舗から見えるところに壊れたままの防潮堤があり、その向こう側の地盤沈下した岸壁に帆立を吊してあるのだという。軽トラでさっと取りに行き、5分もしないうちに大ぶりな殻付きの帆立がジャラジャラと20枚ほど運び込まれる。その一枚を手に取り貝の隙間に小さい包丁を差し込みカキカキと貝柱を切る。パカッと開いた帆立の紐を指でなぞってはずして、大ぶりな帆立が現れる。それを包丁で二つに切り、貝に乗ったまま帆立の刺身の出来上がり。海水の薄い塩味が残ってなんとも甘い帆立。贅沢だと思う。

 こうして何点かの魚を捌いて貰って、その料理方法を教えていただき買い物が終わる。いつも大体1時間、学生がいると「魚当てクイズ」に始まり捌き方実習、刺身の切り方実習、ワカメしゃぶしゃぶ実演などが続き、2時間・3時間と魚屋さんでキャーキャー言いながら過ごしている。

 こんな時間の過ごし方は「贅沢で豊か」だと感じる。

 冷凍では無く、生きた魚をその場で食べることは「贅沢で豊か」だ。

 陸前高田には冷凍加工の工場はほとんどない。だから取れた物は悪くならないうちにみんなで分けて食べる。どこの家でもその時期の旬な食材が並ぶ。余ったら他の家に持って行く。そういうお裾分け文化が生きている地域だ。

 人間関係も、時間の流れ方も、食材も、文化も豊かな地域、豊かな生き方だと思う。

  

陸前高田サポートハウス近所の方

 陸前高田市に開設している「陸前高田サポートハウス」の周辺を散歩していました。この地にしては珍しく雪が残っていました。すぐ裏にある鳥居をくぐって山に登る道で、一軒の家の前だけが雪が全く無く、門から玄関までもきれいに除雪してありました。その先でお婆さんが一人でスコップを持ち、少し凍った雪を砕いていました。「こんにちは、きれいになりますね。」と挨拶すると「あんた、見慣れない顔だね。どっから来たの?お婆ちゃんちでお茶飲みな。」と誘われました。初めて会った見慣れない男に対して不審に思い探るのでは無く「お茶飲みな。」と誘うこの地域の開放性や根本的に人間に対して信頼している姿勢には驚かされます。「この家を借りている立教大学の者です。」と言うと「あー、立教さんね。あんたがそうだったの。お婆ちゃんとこでお茶飲んで行きな。」と誘って下さいます。誘われたら断らない、これが田舎での生活スタイルです。誘われるがまま入った家は、古い木造です。大きな玄関を入ってすぐ右手が茶の間。そこにお爺さんが座っていました。炬燵に入ると、2面が出窓のようになっていて、道の様子が見えます。ここに座り通る人を見るのかも知れませんが、道の先の山には3軒しかありませんので、確かにわたしは見慣れない顔です。

 コーヒーを煎れて下さり、お爺さんが色々と質問されます。急に来た若造を怪しむでも無く、色々と話して下さいました。

 お孫さんが警察官として大船渡警察に震災支援で派遣されて来ていること。そのためこの家から出勤しており、車が上がらないと困るだろうから、お婆さんが綺麗に雪を掃いていたのだそうです。また、お孫さん二人は、茨城県出身と聞き「茨城県のどこですか?」と尋ねると「守谷っていう所。水海道一高を出て二人とも警察になった。」と仰いました。これにはびっくり。わたしは10歳から20歳まで水海道に住んでいました。小・中・高校時代を過ごした場所です。水海道は「みつかいどう」と読みます。現在合併して常総市になってしまったので、水海道の名前を聞くことはあまりありません。これが陸前高田のこんな所で聞くことになろうとは。そしてこの地区の名前は「松山」ですから出来すぎた話ですね。

 会話が弾み1時間半もお邪魔してしまいました。帰りには「生姜ご飯食べる?」と、生姜を細く切り、だし汁と一緒に炊いたご飯と、蕪と大根の漬け物を頂きました。「お腹がすいたらお婆ちゃんの所においで」と言って下さいました。

 陸前高田はこのように「おもてなし文化」が生き続けている地域です。ご馳走を振る舞ってもてなすのではなく、今ある物を出して、お茶を飲みながらもてなす文化です。

 人という存在を信頼していないとこのようには出来ないでしょう。暖かさやぬくもりを感じる日常です。

 蕪を丸ごと漬けた漬け物は、甘さもあってとても美味しかったです。また食べたくなったら散歩に行こうと思います。

 (2013年1月)

 

豊かな生活 1

 俺たちは何でも感謝して生きている。お風呂に入れる、ご飯が食べられる、ストーブがある、どんな小さなことにも感謝している。当たり前にあった物が全部無くなって、当たり前がどれだけありがたいことか知っている。

 あんたたちは、都会で何も不自由しないで生活している。物が沢山ある生活をしているけど、感謝することを知らないのでは無いか。そういう小さなことに感謝しているか?

 今度東京の方で大きな地震があったら、俺たちみたいに生きて行くのは難しいだろう。ここではみんなが持っている物を出し合って生きてきた。奪い合うことも無いし、助け合わないと生きていけない。物に溢れていると感謝することも無いだろうし、みんなで分けるのも難しくないか?

 

(2013年3月)

仮設住宅での生活

(長いです)

 印刷を依頼に行き、そのまま1時間半、寒さと仮設の話しから震災当日の話しまで話して下さいました。

 

 竹駒の辺りは瓦礫が溜まって凄かった。津波が回ってここに溜まった。その日は一中(陸前高田第一中学校:市内を見下ろす高台にある)に避難した。しかし夕方から雪が降ってくるくらい寒かったが、仕事着の逃げたままの服装で、Yシャツだけだった。寒くて木を燃やしたり、教室や体育館のカーテンで5人、10人とくるまって何とか凌いだ。24時間で食べ物は無く、水がコップ1杯くらい。その紙コップも捨てないように言われた。毛布が来たのは3日目くらいかな。このままでは駄目だと思い、矢作(一ノ関に隣接する山側)の実家に行くことにした。道は全然通れず橋も渡れなかったので、横田から生出(おいで)に出る山道を行った。四駆だったので何とか山を越えて行けたが、雪もかなり積もっていて車が何台も捨ててあった。矢作の家に着いたが、実家の人たちは「何があったの?」という感じで全然情報がいってなかった。停電していて勿論テレビを見られなかった。ファンヒーターも使い物にならない。こういう時電気は駄目だ。

 薪もたくさんあるし沢の水が飲める、田舎はこういう時には強い。お風呂に入った時には涙が出た。高田の街は瓦礫の山になっていて別世界の感じがした。洗濯は川で、食物は峠を越えて一ノ関側に行くしかなかった。ガソリンが無くギリギリで、大東町のスタンドにも列が出来ていた。一日何台までと決まっているので、順番が来ないと車をそこに置いたままにしていた。そうしないといつまでも順番が来ない。ガソリン缶で持って来てくれた友だちが一番嬉しかった。

 

 今の仮設は寒い。壁が鉄板のままで外の寒さがそのまま来る。鉄の柱もむきだしでそこに結露がびっしり出る。床のカーペットをめくったらカビが生えていたし、床下の鉄骨はもう錆びている。2年でこれならもう持たない。窓も二重にしているがエアコンは一つの部屋にしかないので、もう一つの寝る部屋はとても寒い。ドアではなくアコーディオンカーテンで下が15センチくらい空いているので、そこから寒さが来る。座布団を詰めて来ないようにしているが、あまり効果は無い。風呂は最悪で寒い。風呂の下は地面できっともう駄目になると思う。陸前高田で最初に出来た仮設で仕方が無いのかもしれないが、このまま住み続けるのはきつい。4年間ということになったが、ここに4年は居られない。

 今でも休みの日も仮設に居たことは無い。4.5畳の部屋に居られない。外も行くところが無く、車に居たり、車を走らせたり、仕事場に来ている方が楽。このまま2年も続くと思うとどうしようもない。時々、空き家でもいいから一軒家、普通の家に行きたくなる。そういう所で寝てみたい。仮設は知らない人が多いし、音がしたりお互いに遠慮して生活している。昼間仕事に行っていると、部屋の中は本当に冷え切ってしまって、暖かくなるまで5分くらいは動けない。

 

 移転すると言っても全然目処が立たない。高台の土地が無いし、家を建てるお金もない。あっても土地は全然無いのでどうしようもない。県営住宅などたくさん建ててくれないと、そういう所に入るしか無いと思う。市役所がどこに出来るかも決まっていないので、店をやっていた人は今仮設でも店を出せない。今お金出して作っても、また他の場所となったときまた移転する力は無い。

 復興って言っても10年とか15年かかりそうで、自分たちは見られるかどうか分からない。そんな時間が経ったらどんどん出て行ってしまって住む人が居なくなるのではないか。

 

(でも、話しを陸前高田の良さに移し、食材が新鮮で豊富なこと、人の温かさ、事件の無い街だったことなどについて語ってもらいました。)

 2013年1月22日:陸前高田第一中学校仮設に入居されている男性

 

 2011年4月、車で石巻市に行きました。道だけはようやく通れるように両脇に瓦礫をどけてあるものの、車が家に突っ込み、人の手では動かせないほどの大量な物体がごろごろしていました。おびただしい車が上を向いたり突き刺さったり、あり得ない状態で転がっています。何か手伝えないかと歩いていました。一人の男性が歩いて来たので「何かお手伝いできないでしょうか?」と尋ねると、

 「何もしなくていい。やれることは無いし、ここは自分らでするしかない。それより東京に帰って、ここで見たことをたくさんの人に話してくれ。こんなことになっているとたくさんの人に知らせてくれ。それが一番やって欲しいことだよ。」

 2011年4月 石巻

 大船渡市にある名勝地『穴通し磯』に連れて行って下さった。そこには、震災前の『穴通し磯』の大きな写真が看板になっている。「この写真と今の景色でどこが違う?」と質問される。『穴通し磯』の後ろに、大船渡湾を横切る形で『湾口堤防』がある。

 それを示しながら「400mの湾口堤防が自慢だった。これがあるから津波は大丈夫と思ってた。でも跡形もない。 人間が作った物はどんなに強く造っても壊れる。でも見ろ。こんな崩れそうな岩でも、自然の物は何も壊れていない。自然は強い。

 2011年11月 大船渡市末崎のおじさん

大船渡市の「穴通し磯」震災後
大船渡市の「穴通し磯」震災後
震災前の「穴通磯」
震災前の「穴通磯」

震災前の「穴通磯」。左上に白く見えるのが、湾口防波堤。大船渡湾の入り口に位置し、両岸から合計533mの堤防を築いていました。真ん中を10万トン級の船が通れるよう200m開けてあります。水深が38mもあることから、高さ40m以上の建造物でした。インターネットに海上保安庁のヘリコプターからの映像がありましたが、津波襲来時開口部から進入していた津波ですが、やがてこの湾口防波堤も破壊してしまいました。

 「穴通磯」や「碁石海岸」では、奇岩や切り立った岩が多くあり、壊れそうにも見えますが、これらは津波でも全く壊れていません。

 「人間が造った物はどんなに強く造っても壊れる。」「自然は強い」というこの海の恵みで生きている男性の言葉は、哲学的でもあると思うのです。

 家を流され、財産の全てを失うというダメージを受けているのに、海を恨んではおらず、また毎日海に出て海の恵みをもらっているのです。その海の恵みによってプレハブの店が開店しました。これからも海の恵みを得て、家も財産も元に戻そうとされるのでしょう。

 自然との付き合い方がわたしたちとは違うと思うのです。

 

「津波は1000年に一度来るって言われて分かっていたこと。1000年に一度でも誰かのところに来る。それがわたしたちの時に来たということ。誰かの時に来るんだから仕方が無い。他の人じゃなくて自分の時に来て良かったんじゃないの。家は無くなったけど命は助かったから、またやり直せばいいんだから。」

 津波で家を失い仮設住宅に住む夫婦:2012年6月17日


 

 

 廃墟になってしまった気仙沼の港湾地区の元商店街を学生を連れて歩いていたら、一軒のビルに工事用シートが掛かっていた。見ると蒲鉾屋さんで、開店しているようだった。「この店再開したみたいだね。」と学生に言っていると後ろから「第一号で再開した店だよ。」と男性の声。「そうですか、第一号ですか。」と応えると「俺の店だ。第一号なんだ」と。 「そうですか、じゃあ何か買いましょう。」と中に入る。ボランティアの学生を引率して来たと説明したら

 「自衛隊とボランティア。その人たちのお陰で生きていくことができた。ありがたい。若い人の力は本当に大事だよ。本当にありがとう!」

 

 未だ何もせず歩いていただけのわたしたちに、名前も知らないわたしたちに、お礼を言ってくださることに、学生たちも感激でした。若い力がこれからの復興にはどうしても必要です。それを学生たちに教えて下さいました。 

2012年2月 気仙沼市エースポート前の蒲鉾屋さん(男性)


 

 

 陸前高田市小友町で貸して頂いた家の地デジ化するために、プレハブで営業を再開した高田町の電気屋さんに行った。6畳くらいのプレハブで、幼稚園からの同級生の女性に店番をしてもらいながら仕事をしているとのことでした。

 東京から来て家を借りて活動すると分かると、色々と話をして下さいました。妻を津波で亡くし、二人の男の子と三人暮らしになり、仕事中心だった生活から、子どもとの時間を作ることを優先しているとのことでした。そのうちに貯まっていたのでしょう、生々しい話をしてくださいました。 (ほぼそのままです)

 消防団に入っていたので、遺体捜索とかやっていた。テレビや新聞にこれまで色々話したけど、誰も本当のことを書いてくれない。でもそんなきれい事じゃない。遺体捜索で自分も300体くらい運んだりした。探しに行って見つけると、ほとんど知っている奴ばかり。ああ、あいつだ、あああそこの人だ、って顔をみたら知っているばかりだった。それもまともな遺体なんてほとんどなくて、手が無かったり頭だけだったり。  それを集めて、渡すときには少しでもまともになるようにしてあげてた。

 こんな話しは、誰も書いてくれない。何度も何度も話したのに。そんなことが起きてたんだ。

 これからは楽しく生きていくことを考える。死んだ人も、生き残った人には幸せになって欲しいと思っているはずで、いつまでも暗く下向いているのはおかしい。精一杯楽しい人生にしたい。それが生き残った人のやることだよ。死んだ人のために記念公園を作るとか色々言ってるけど、それより生き残った俺らが幸せになるためにお金を使って欲しい。俺たちは生きていかなきゃいけないんだ。生きるためにお金を使ってもらいたい。 (2時間のほんの一部です)

 2012年1月 陸前高田市の電気屋さん