福島 「郡山」「いわき」

福島との関わり

 

 2011年3月11日東日本大震災が起き、混乱の中、被災地のことが気になって仕方ありませんでした。 東京に居てもできる援助は無いか、様々考えていました。

震災前から「福島県医療ソーシャルワーカー協会」の方々とは長く交流がありました。20年も前から、何度も県協会の研修に呼んで頂いていました。さらに、2年前からは、療養病床廃止に関する調査で、何度も郡山を訪問していました。

 お世話になった方々がどうしているの、心配していました。

 

 毎日インターネットで、震災関連の法制度がどうなっているか調べていました。「被災者が、健康保険証を持たずに病院を受診しても、費用の支払いは不要」「介護保険では、要介護度は口頭での申告でよい。」という保健・医療・福祉に関する情報を集めていました。

 この情報を福島のソーシャルワーカーたちに送ろうと、福島県医療ソーシャルワーカー協会のメーリングリストに入れてもらいました。戦場のように混乱し、家にも帰らず仕事をしているソーシャルワーカーが、ようやく手続きをしてくれて、3月21日からメーリングリストに情報を送り始めました。何が必要な情報なのか、病院関係の情報をネットサーフィンしながら探し、内容を読みやすいように要約して送っていました。大学が休みなので、一日中パソコンの前に座り、情報を探していました。

 3月末、いわき市出身の卒業生が、両親・祖父母を連れて自分の借りていたアパートに避難して来ました。食料・水・ガソリンが無い中で、一人の若い女の子が一家4人を背負って混乱していました。しかも、低体温症などで受診した病院では、被災者だと分かった上で料金を請求していました。わずかなお金を持って逃げて来たのに、そのなけなしの中から支払いをしていました。学生には「一人で背負えるような問題では無い。被災者であることを利用して、避難所に行って食料・水・衣類・医療などの提供を受けるように。」アドバイスしました。

 一方、被災地の医療機関だけではなく、全国に避難している方々のためには、全国のソーシャルワーカーが情報を正しく知ることが必要と思い、集めた情報をホームページを作ってまとめて掲載することにしました。

 それが、わたしの福島への支援の始まりとなりました。

いわき市相談支援専門職チームシンポジウム(2013/4/13)

福島県双葉郡楢葉町地域包括支援センターの避難

福島県楢葉町は、大地震・津波被害、そして原発事故による放射能からの避難と大きな被害を受けている。住み慣れた地に帰ることが出来ないという状況が続いており、何も進展していない。被害を受け続けている。

 

 楢葉町の地域包括支援センターの職員の方から、3.11当日そしてその後の混乱の状況を伺うことが出来た。

 

==============

 311

  楢葉町地域包括支援センターの二人の職員は、町役場隣にある社会福祉会館にいた。健康教室が終わり、丁度参加されていた方々が帰られた後だった。事務室に居たときに大きな地震が起きた。部屋の中の冷蔵庫が滑り出し、コピー機も行ったり来たりする。本が崩れ落ち、机の上の物も滑り落ちていく。二人は机の下に潜り込むのがようやくだったと言います。壁に飾っていたいくつかの額縁を10日に外していたのは幸いでした。もし頭の上の額縁があったら、落ちて来て頭を打つか、割れたガラスで怪我をしたでしょう。

 東電があるので、避難訓練はしていた。

 最初の地震で建物が壊れるかと外へ出た。その時は何も持っていなかった。物を取ってこようとしらまた大きく揺れて怖かった。物を取ってまた外に出ると、隣の3階建てに家が崩れているのに気づいた。「これは大変なことになった。」と思った。

  体育館が避難所だったけど、壊れて使えなくなっていてみんな福祉会館に集まってきた。放送で何か言っていたらしいけど、福祉会館には放送が聞こえなかったので分からないが、町民は避難してきた。

 1階はフローリングなので2階の大広間は畳があっていいということで2階も開けた。電気は通っていた。


 町の対策本部は町役場(福祉会館の向かい200mほどの位置)に置かれていたが、指示はほとんど来なかった。取りあえず誰が避難して来ているのか把握するために、紙に名前を書いて貰って、それを大きな紙に書いては貼り出すし、また本部にも写しを持って行くことを続けていた。何も食べず、飲まず名簿を作り持って行ったり、避難して来た人たちへの対応をしていた。テレビもラジオもなく何も情報はなく、本部からの情報や指示も無くただ体を動かしていた。水が届いてトイレに使い、大きなプールのようなものに入れ使った。

その間も余震それも震度5程度の余震が続き、地鳴りの音もして怖かった。

 1階も2階も人で一杯になったけど、3階は職員用に開けておこうと立ち入り禁止にし、仮眠を取るよう言われ何とか3階で仮眠を取った。

 

 312

  朝、町全体が避難するという決定が下され、朝8時半にはバスが迎えに来た。結局地震後家に戻れず、仕事に出勤したそのままの服装で避難した形になった。自分で避難できる人は自分の車で避難したよう。とにかく町から離れていわきの方へ逃げるように放送があったらしい。二人は最後まで送り出しをして、会館内に誰も居ないことを確認して鍵を閉めた。マイクロバスやバスが来た。

 外に自閉症の人が両手に荷物を持って立っていて、「避難して来たの」と訊くとうなずき、マイクロバスに乗せた。

 最後の車に別々に乗った。小林さんの車はガソリンが無かったが、途中手動でガソリンを入れてくれるスタンドがあるというのでそこに寄ってガソリンを入れた。最後まで「これが自分の使命だから」と一人残ってスタンドを開店していた。

 六小までは45時間かかった。相当ひどい渋滞でなかなか進まなかった。12日は暖かな日で寝ていなかったので運転していても眠かった。

 あい 小の門の所に人が居て「ここは一杯だから他へ行け」と言われる。どこに行くのかも指示が無く、結局六小に到着。もう住民で一杯で居場所が無く、12日の夜は舞台の上のピアノの脚の所にようやくスペースを見つけ体育座りして寝る状況だった。

 

 事務所は校長室などにあり、体育館には情報が来なかった。町長や町の偉い人たちは中央台小に集まっていてそこが対策本部になっていった。指示が来て、住民に説明するように言われて、言われた通りに説明するが、しばらくすると別な説明内容が伝えられたりし、何が本当か分からなかった。住民も混乱していた。『2・3にしたら帰ることが出来る』という程度に考えていた。停電も続き情報が全く入って来ない。職員はラジオを聴く暇もない。上司から「○○はこうする」と言われ、それをメガホンで体育館にいる住民に伝えるが、すぐ後に違う情報が来る。その度に住民に説明しなければならないが、あまりに情報が混乱していて、かえって住民を混乱させている感じ。間に挟まれて大変な思いだった。

 

 原発が爆発したことは知らされず、東電の職員も来て住民に説明してくれていたが「温度が上がっているので、頑張って下げている。2日くらいはかかる」という説明だったので、23日したら帰ることができると信じていた。そのくらい情報が無かった。

 

 14日には、「ここにも津波が来るらしい。」という情報が有り、上司から社協としては解散と告げられた。「逃げてもいいし残ってもいい、自分の意思で判断してくれ。」と選択を迫られた。この人たちを置いて逃げることは出来ないと思い、「津波が来たら裏山を登って逃げよう」と思っていたし、「自分たちはもう助からないのだ」と覚悟を決めた。自分たちは死ぬのだと思い、最後に家族に連絡を取っておきたいと思った。東京の親に電話して(繋がるようになっていた)「万が一のことがあったら子どもをお願いします。」と泣きながら言ったが「何を言っているの?」と言われた。 

 自分たちも家族の消息が分からずそのまま逃げていたが、家族を探す暇も無かった。

 

 二人ともほとんど飲まず食わずで住民対応に追われていた。認知症の人が居るとそばについていたりもした。1日におにぎり1個くらいで、水はほとんど飲まなかった。

 Kさんは脱水症状がひどくなり、水を飲むように持ってきてもらっても、もう飲み込むことも出来なかった。身体が震えて思うように動かなくなっていた。このままでは死んでしまうと、近くの友人の家に行かせてもらうことにした。しかしその友人は既に逃げていて家にいなかった。家族の人が暖かくしてくれようやく安心して眠ることも出来たし、食べることが出来た。

 しかし、原発が爆発したことやいわきから沢山の人が逃げていることを初めて知った。同僚に電話して泣きながら「逃げて下さい。」とお願いした。辛かったが知人を頼って自分も県外に逃げた。


 その後、楢葉町役場が会津に置かれ、職員にも戻るように指示が有戻るのですが、それはまた過酷な避難生活へと戻ることを意味します。それでも会津に行き、住民と一緒に避難生活を始めます。

 

 (聞き取りは未だ中途です。未だ話すことも難しい心理状態です。お二人は「話したい。聴いて欲しい。」「私たちの経験したことをたくさんの人に知って欲しい。」と言われますが、実際に話始めると辛くなって来てしまいます。お二人にとっては、避難生活は続いており、まだ何も進んでいません。これからも少しずつ話して頂きます。)